レヴィナス生誕100周年(3)
三日目。タイトル「レヴィナスとその同時代人;サルトル、ブランショ、ジャンケレヴィッチ、デリダ」
実は円卓会議の前にビデオ上映があったが、時間を間違えたのと、place d'Italieの自動改札で切符(一週間用のcarte orange)が飲み込まれ、別の改札までいって係員を呼び、切符を出してもらったのと、最短距離でgare du Nordまで行ける地下鉄五番線がまさにそのgare du Nordで技術関係のトラブルが発生し、各駅に止まるたび五分ほど停車するはめになったため。しかし同じビデオが日曜日の一番長いコンフェランスの冒頭で流される予定なので、とくに急がず、到着したときにはちょうどビデオが終わった後のようだった。三日連続で同じ場所にくると受付の人たちとも顔なじみになり、聴講者も顔に見覚えのある人が増える。だいぶ気持ち的に入りやすくなった。
司会:Max KOHN、パリ第七大学教授
Françoise Collin、ブランショ研究者、1971年にブランショ研究書(Maurice blanchot et la question de l'écriture. essai. )を出版。会場ではMaurice Blanchot et la question de l'écritureが売っていた。Cahier de l'herneのレヴィナス号でレヴィナスとブランショの比較論を書いている。
Eric Hoppenot、ブランショ研究者、スペインの大学で教鞭をとる。共著にL'oeuvre du Féminin dans l'écriture de Maurice Blanchot。
Françoise Schwab、ジャンケレヴィッチ研究者
Elena Bovo、高校(イタリア?)のフランス語教師、デリダ研究者
なぜかタイトルにあるサルトルの研究者がおらず、ブランショ研究者が二人。というわけでサルトルは話題にならず終い。
円卓会議要約
Collin:71年に出版した自著ではデリダとの比較はしたがレヴィナスへの観点はまったくなかった。ブランショにならい、テクスト研究に作者の実体験(交友関係も含めて)は関係ないという信念だったが、レヴィナスのテクストからの影響関係は無視できない。戦後ブランショは少しずつレヴィナスの哲学作品を理解していったように見える。レヴィナスとブランショをどんな点で近づけることができるか?まずはその哲学的出発点である、フッサールハイデガーの影響および批判があげられる。主体の構造、主体客体関係への批判。両者ともに主体そのものを揺るがす(destabiliser)方向へ進む。この作業がレヴィナスにおいては他者、ブランショにおいてはテクストにおいてなされる。ブランショにおいてはテクストの他性がどんどん重要性を持つようになる。
Hoppenot:レヴィナスのブランショ論集「モーリスブランショについて」でレヴィナスは次のように述べている「モーリスブランショが書いた全てのことは高み(hauteur)についての証言である。」ブランショにおける中性(Neutre)は世界の非人称的震えであり、ある意味ではツィムツームの一つの形態と言うこともできる。ブランショ的中性と他者の関係:中性は超越を含み隠している、中性は高みそのものではなく世界の震えであるから、低くみにおける超越といえる。
Schwab:ジャンケレヴィッチとレヴィナスの最初の出会いは31年。57年のユダヤ知識人会議でも同席している。二人の間で共鳴しているのは倫理的なものの優位。また戦後、ハイデガーへの嫌悪感も共通。ただジャンケレヴィッチが語ることさえほとんどしなかったのに対して、レヴィナスは多くを語り、『存在と時間』に哲学史上の偉大な地位を与えている。とはいえドイツ国内に入る(単に移動で通過するだけでも)ことだけは決して無かった。赦しは両者にとって哲学的問題だったが、ナチの恐怖によって支配された記憶により赦し得ないものがあった。選び(決して特権としてではなく、道徳的責任として)と寛容も両者に共通する。二人ともベルクソンの影響下にあり、時間の概念でも類似性が見られる(ジャンケレヴィッチにおける連続的奔出jaillessement continuとしての時間性)。
Bovo:レヴィナスに関しては『神、死、時間』、デリダに関しては『郵便葉書』『メモワール、ポールドマンのために』を参照した。自己同一性と死を巡る両者に共通点。死はレヴィナスにとっては他者の死のことであり、他者の死を経験することは「生き残りの経験」。他者を死ぬままにさせておくことができないという感情が自己の同一性そのものの構成要素になっている。非現在による、自己の現在にに対する感情/感染作用は、上記のデリダにも見られる。
以上要約でした。ノート以外の記憶で再構成した部分もあります。この日の発言者は皆レヴィナスの研究者ではないので、レヴィナスに関する知識はやや物足りないものがあった、というのが正直なところ(表面的なところではSchwabさんはレヴィナスが留学した街をマールブルクだと勘違いしていた。この街はハイデガーがフライブルクに来る前いた街。ちなみに昨日のザランスキさんもレヴィナスの「ヒトラー主義哲学についての若干の考察」の執筆年を1937としていたが34年の間違い。)
ただこうして纏めてみるとテーマとしては興味深いテーマが並んでいる。でもこれで入場料とるのはちょっと、、と思う。
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